自己紹介

つぶやくことなんてない

 今日は起きてゲームをして飯食って桂川をサイクリングしてきました.休日って感じですね.例によって生産性は0であります.笑ってはいられません.夜からは勉強します.

 京大生なのに桂川まで?鴨川じゃなくて?つまりそういうことなのです.この春に住み慣れた左京区を離れ,現在西京区に居住しています.桂は特急停車駅ともあって思ったよりも都会ですがやはり「郊外」といった感じで各種チェーン店などは多く,それなりに便利です.「住めば都」なんて言ったら洛中人に怒られるかもしれませんが,便利な街だと思います.桂キャンパスについてもおいおい書いていこうと思います.

 

 テレビ番組を見た感想について,続きを書こうと思います.

 京大生が「京大生」であることをウリにテレビに取り上げられることはそんなに珍しいことではありません.やはりそういう有名大学の学生の実態に迫る内容は多くの人々を引き付けるコンテンツであるのだと思います.(実際自分もそのような番組をやってたら結構見てしまいます)京大生が自分の学校の特徴として主張していた内容は,おおむねそういった番組やネットのまとめ的な場所で囁かれる内容を横流しにしたものでした.実際に取材を受けていた人の生活や,その人がどんなすごい体験をしてきたかは自分には知ることはできませんが,大方こういった内容だったので,自信満々に母校の誇りを背負ってと言わんばかりに話す人に対して「それって自分が実際に体験したことなの?」って思ってしまいました.やはりTVショーであるなあと思いました.まあ実際に私も番組見ちゃってるのでこれは制作側の完全勝利です.

 こんなことをねちねちと書き込んでいる自分はというと,おんなじように答えないといけない状況になれば,ひとつもテレビには使われないでしょう.何しろ私生活がつまらんのですから.

 結局何を言いたいかというと「大学」に対する「愛校心」についてなんです.今まで3年間京都大学に通い,キャンパスで過ごし,レポートを提出する度に署名欄に「京都大学工学部~」とかいういらないと思われる所属まで書いてきたのですが,どうも愛校心というのがないのです.大学は勉強する場所としても,いろんな人や変な物がいたりとか,暇をつぶす場所があったりとか,そう意味では好きなのですが,高校や中学の頃に感じていたある種の帰属意識というのが,大学に入って一気に弱まったような気がします.なんというか,テレビで「京大生」を見て,改めて自分もそうなのかと思わされたぐらい,なんだか所属に関して他人事のような気分でこれまで過ごしてきてる気がします.(タイトルと完全に矛盾してるけど笑)これは本当にどうでもいいことなんですが.

 一つにはやはり縛りの緩さなんでしょうか.全校集会とか,運動会とか,全生徒が一つの場所に集まって何かをする,そうでなくても固定の集団が毎日同じ場所に集まって勉強するということがなくなったからなのかもしれません.般教は違う学科の数百人が同じ教室で授業を受け(実際には半分くらいしか来ませんが),キャンパス内を歩く人は知らない人ばかり,専門の授業にしても座席が固定されてないから知らない人との交流もない(自分はそもそも交流がない!)いままでガッチガチに集団行動をさせられていたのに,急にこういう環境に放り出されて,コミュニティの濃度が激減したというか,自分は局所的な高濃度のコミュニティも形成できなかったので,何かに帰属しているという感じがすっかり消え落ちてしまったみたいです.もちろんがんじがらめの中で生活したくはないですが,すこし,寂しさもあるというのが正直のところです.

 二つ目は,部活やってないから.部活動では学校の顔として大会に出場したりするのでこういうのは愛校心とか誇りとかにつながるんじゃないでしょうか.高校のときとかは,他校は絶対的な「敵」として認識していたし,自分が出場していなくても,自分の学校が表彰台に上がったときはそれなりに嬉しかったと記憶しています.大学には独自の応援歌とかがあるみたいですが部活をやっていなければまず歌うことはないでしょう.たしか「ああわれらの京都大学 京都大学」的な歌詞があったような気がします.

 

 番組を見終わったときには,そういったこともあって自分の大学について嬉々として議論する人たちをまったくの他人事として見ているような気がしました.ネガティブな意見ばっかりで申し訳ない.

 こんにちは.

 新年度が始まり4回生になった京大生です.4回生のこの時期といえば単位も取り終わり就活に精を出す,または卒論のことを考え始めるものと思いますが,私は大学院に進学する予定ですので,ゆるゆると勉強をし始めるべき時期に来ているものと思われます.(実際,まだ春休み気分です\(^o^)/お昼寝を好きなだけしています)

 

 さて,フジテレビ系列の特番で「さんまの東大方程式」という番組がありますよね.よっぽど人気があるらしいと見えて,この間の4月7日には第7回目の放送があったようです.そして,今回は東大生だけでなく,京大からも参加して,ある種の対戦的な構図で取り上げられたようです.私はどちらの大学の入学試験も受けた身ですので,(実際にそういう京大生の存在はたまーに聞きます.そんなに珍しくはないかも)前の記事で長々と東大がどうだ京大がどうだを書き散らかしたものと記憶しています.これは見るしかない.ネット上に無造作に転がっている「アーカイブス」を視聴することにしました.

 

 実をいうと,近いうちに京大生を交えた「東大方程式」が放送されることは知っていました.去年の11月のことですが,京大の文化祭「NF」にサークルの出し物で会場にいた際にカメラを持った人を含めた数人のテレビクルー(法被かマイクだかに「さんまの~」が書いていたと思います)がやってきていたのです.それも,いくつかのチームがあるようで2回くらい尋ねてきては「面白い人をさがしてるんですけど!」とおっしゃる.面白い人を知らないわけではなかったのですが,なんか「テレビマン」ていう感じのしゃべり方や身のこなし方が気に障ったので,(普通に忙しかったので)丁重にお断りをすることにしました.やっぱ天下のフジテレビはすごいなあ.とまあ,こんな感じで,あまたの「おもしろい奴」がテレビマンの人たちの涙ぐましい現地活動により集められ,番組は作られているのですね.

 

 テレビ番組には台本があるというのはよく聞くことですが,だからといって「ヤラセだ!」「インチキだ!」などとのたもう視聴者は楽しみ方を知らないと言えます.特にこういうステレオタイプに対立を煽る構造では,脚色,恣意的な情報選択は当たり前のものだと思います.その産物こそがこの番組が人気たる所以なんですから,そういうやり方をしていることについては目をつむりたいと思います.しかし,事実は事実.京大生4年目をやっている当事者中の当事者である自分が「事実」として語られるトピックをつぶさに検証していこうというのがこの文章の趣旨である.レッツラゴー.

 

1. 東大生と京大生はお互いのことをどう思っているの?

 

まず京大→東大

一位 プライドが高すぎる

二位 人情がなく冷たい

三位 真面目過ぎて面白くない

へーとしか.そもそも皆さんそんなに東大生とかかわりがあったりするもんなんですかね?てかインタビューされてるやつ全員初めから連絡付けてるだろ.(こういうことは目をつむるんでしたね)この結果はたぶん「関西人に聞いた『東京』の悪いところトップ3」とおおむね一致するんじゃないでしょうか笑.全部悪口ですからね.東大生である以前に「関東人」としてのバイアスをみることができます.(できれば得票数の内訳も入れてほしかったなあ.)

 

私が思う東大生のイメージ

 

 

賢い

以上.知らん.面白くなさそうというのはちょっとわかる.イメージの話.

 

逆.東大→京大.

一位 そもそもイメージがない

二位 変人が多い

三位 自由をはき違えている

こっちはある程度事情が分かるから検証してみよう.

 

三位 自由をはき違えている

部分的に正解.入学したとたんから周りの先輩とかが自分の自堕落さを吹聴してくるので,自堕落であること(単位を落としたり,授業にでないこと,カリキュラムを批判する)ことをある種の美徳として確立してしまう人はいるかも.もちろん一般的な大学生全般にも当てはまるかもしれないが,ここでは「自由の学風」によって免罪される.自分の中だけだけど.鴨川に飛び込む人はまあまあおると思うけど大多数はつつましく生きてます.立て看板はなあ…条例が悪いんや.

二位 変人が多い

普通の人が多いとおもう.これは凡庸という意味ではなく社会生活という観点で普通ということ.面白い人は確かにいるが,決して多いとは思わない.それと同じくらい面白い「風」の人がいそう.てか出てきた京大生全員見た目じゃん…

一位 そもそもイメージがない

眼中にないということ.ああ…そうですかい.トップは他人の背中が見えないということですか.でもちょっと「言ってやった」感もあるのか?関東関西の話に戻りますが,関西人はこういう態度をあからさまに示されると関東人に対しかなり反感を抱くと思います.知らんけど.

 

2. どっちがスゴイ?天才自慢対決

 完全に個人の才能ですね.特に面白くもないので飛ばし.

 

3.  京大生⇔東大生 物申す.

 

東大生「京大生は留年しすぎ」

「限りある若い時間を有効に使う」ならばには留年はいいことなのでは…

 

京大生「東大は100人中80人優秀な学生が生まれる.京大は100人中1人の天才,99人の廃人」

これはどう考えても言い過ぎ.どや顔でいうことではないと思われる.たぶんノーベル賞のことに絡めているつもりだと思うが,自分が取ったわけでもないものを根拠に自信の優位性を主張しているのは本当にダサい.言いすぎました.

 

長いのでここまでにします.

 

4. 悩みランキング

京大生はお金がない!京大周辺は田舎だからバイトへの倍率が高いとのこと.せやろか…?僕は普通に近くでバイトしてました.まあ業種によるんですかね.時給は東京よりは低いけど家賃と大学の近くに住めること考えたら東大より環境はいいと思います.

第一位…モテない.これは分かる.どうしようもないね.

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いやどんぐりの背比べでしょ…

 

ほんとはもうちょっと詳しく突っ込むつもりでしたが,書いているうちに自分の信念が揺らいできたのを感じ,また非常に無益な感じがしたので今日はここで終わりにします.すいません

大学生と単位②

 大学での授業は,学校が勝手に時間割を組んでくれて指定された授業に出る,という受動的なものではなく,基本的には学期の初めに自らが取りたい(取るべき)授業を登録し,時間割を自分で組むということをします.自分の取りたい授業を取って自由に時間割が組める.なんて自由なんだ!と思ってしまいますが,だからといって完全週休5日制などを採用していては,4年間で卒業まで漕ぎつことはまず出来ません.卒業するためには指定された数の単位を取らないといけませんから,これを考慮して時間割を組む必要があります.ということを念頭においても,時間割ってその内容については結構自由が利くんじゃないかと思われるかもしれません.

 これは,私が大学生の時間割について,かなり自由な印象を持っていたこともあると思いますが,現実にはそこまで自由度は高くありませんでした.自分の経験から話します.

【工学部〇〇工学科の場合】

 卒業要件は単位の数で表されると話しましたが,その中でも科目の種類によって満たすべき内訳が決められています.具体的には,

・一般教養(文科系)から20単位

・一般教養(理数系)から30単位

・語学(英語)から16単位

・語学(第二外国語)から8単位

・専門科目から50単位

・卒業研究(10単位)

などというように,この時点で自由度はそんなに高くないということが分かります.必修科目や選択必修科目(指定された授業に中から一定の単位数を満たすことが求められるもの)を採ることは絶対に避けられないものですが,他は「必修」ではないからといって多くのルートが残されているわけではありません.一般教養(理数系)や専門科目というのはどれをとっても良いというものではなく,学科やコースによって卒業要件に適用される科目というのが決まっていて,数でいうと,卒業要件の単位数に対し指定された科目が1.2倍程(体感)というほどで,指定された科目をそのまま全部取って,多少の単位を落とすくらいなら余裕で卒業できるということになります.おまけに卒業要件で指定された科目はたいてい履修登録のときにあらかじめリストアップされているので,それをそのまま受け入れればよいのです.時間割作成というのは思ったよりわくわくするものではなかったということです.

 大学4年間の学習の流れはこのようなものになります,

1回 英語,二外,数学・理科の基礎科目,般教(文科)

2回 数学・理科の基礎科目,専門科目,(実験など),般教(文科)

3回 専門科目,実験など

4回 院試/就活,卒論

あらかじめほとんど決められた時間割を順当にこなせば,1回生で語学を,2回で般教(文科系)を3回で専門科目を取り終えることになります.この中で,何を取るかを自分で考えて時間割を組んだのは般教(文科系)くらいです.一番忙しいのは1回生でした.よくがんばったものです.2回からは週一回くらいは全休を作ることができるでしょう.

 卒業要件は満たすべき単位数の下限を表すものなので,もちろんこれを超えて卒業に認められない授業を取ることは全く問題ありません.やる気があれば他学部の専門科目取ることもできます.結局私はしませんでした.

 何が言いたいかといえば,時間割というのはイチから自分で考えて組み立てていく,というものではなく,与えられたものにちょっとずつ付け加えて調整すれば卒業できるものになっているということです.自分自身でもあまりよくわからないままここまで来ましたが,このような学生でもきちんと卒業できるよう,手厚く保護されているようです.何回も言っていますが,これを裏返せばあまり自由が利くものではないということです.この点はすこしがっかりしたものです.

 

 

 

大学生と単位①

 一般的な話として,大学に入学するためにはまず入学試験を受けなければなりません.そこで出した点数が募集定員を上回っていればめでたく入学,定員よりも少しでも下に入れば入学することはできません.これは当たり前の話で,高校受験を経験してきた高校生にも理解は難しくないことと思います.

 では,大学を卒業するためには何をする必要があるのでしょうか.大学に入学すると,4年間の学校生活がまた始まるわけですが,一部の大学生には留年という運命もあり,みんながみんな4年間で卒業にたどり着けるものではありません.高校ではほとんどの人が卒業要件など意識する必要もなく,授業に出てテストを受けたりしながら3年過ごせば学校から出ていかされることになりますが,大学では卒業要件というものを満たすように授業計画を自分で建てる必要があります.この卒業要件は「単位」という,まさに数字で学習の到達度を表す単位によって示されます.具体的には,4年間で120単位を採りなさい,そうすれば卒業させてあげますよ,という感じです.

 この単位というのは,普通は自分の取りたい授業を登録して,その授業で提示された要件を満たすよう行動すれば与えられます.それぞれの学期の終わりにこの要件の充足度が100点満点によって示され,60点以上の得点を獲得していれば合格,という具合です.こういう書き方をしたのは,それぞれの授業によってその要件は様々であるからです.私が今まで受けた授業の三分の一くらいは,学期末にテストを受けて,その成績によって点数が示される,というものでした.この場合は,テストで結果を出すこと,それが唯一の条件です.つまり,授業に出席するかどうかは全く(ほとんど)関係ないというわけです.これが,大学生の生活が「自由」なイメージを生んでいるものと思います.

 とはいっても,授業に出ないと内容についてけないからテストで点数をとれないのでは,と思ってしまいますが,数回程度欠席するくらいなら全く影響はありません.特に,教科書が指定される授業であれば,教科書の内容を理解しておけばまず大丈夫でしょう.そのくらい,想像していたよりもなんてことのないことでした.過去問というものを手に入れると,もっと張り合いはなくなります.過去問というのは,授業を担当する教員が直々に公開するものではありませんが,サークルなどでデータベース化され,過年度の試験問題がどのようなものかを知ることができます.そして,これがほとんどそのまま出るということがまあまああります.この場合はもちろん,この問題の答えをだけを覚えておけば運が良かった場合は無事に単位を頂けますが,それではあまりにもリスキーです.確実に単位を取りたければ,過去問の内容が理解できるくらいには勉強しておくくらいがよいでしょう.

 ここまでは,最小の労力で単位を取得するための話です.本当に授業の出席が必要ない授業もありますが,出席を毎回取ったり不定期で取ったり,小テストを課したりする授業もあります.この場合は,たとえば出席30%,テスト70%とかいう具合に成績が付けられます.テストが70%なので,授業に出ずともテストだけ受けてほとんど完璧に答えさえすれば単位はもらえます.よっぽど自信がある場合でないとあまりお勧めはしませんが.

 かなり無責任なことを書いてしまったと思います.なぜなら,私はそのような不真面目なことをやっていないからです.授業に遅刻したり,たまに寝過ごして午前の授業を休むことはありますが,ほとんどは出席してきました.なんだかんだ怖いので進んで授業を休むという気にはなれないというのが実際のところです.しかし,3年間こんな感じで授業に出てきたからから言えることは「授業出る必要ねえな」ということです.これはやってみないと分からない感覚でしょう.

 ほとんどの授業はこんな感じで臨んでいれば単位を取ることができます.私は課題が与えられることがなければ授業の予習復習なぞしたことがありません.なので,テスト前になるとなんやこれ全然わからん!という感じで1から勉強しなおすことになります.当然こんな態度では万全の状態でテストを迎えることはできません.だいたい60%くらいの理解でテストを受けます.場合によっては40%のこともあります.私のテスト期間はたいていテストを受けた!全然解けんかった!でも終わった!夏休み突入!という感じでした.その3週間後くらいに成績が発表されます.急に不安になりつつも成績表をのぞいてみると..

「あれ,こんなできとったかな...」

もちろん授業を担当する教員に依りますが,評価はかなりゆるゆるなようです.初めての期末テスト受けたあとの1回生の夏は本当に拍子抜けしたことを覚えています.

決して参考になさらぬよう.

大学ってぼっちでも大丈夫なの?

 私は一浪して今の大学に入りました.3年前の春のことです.

 殺伐とした受験戦争を勝ち上がり,3月の合格発表というイベントを無事にやり過ごした世の受験生の皆さんは春休みは何をするものなんでしょうか.私はただぐうたらしていました.なぜなら,長く虚無な受験という試練を曲がりなりにも乗り越えた19歳の私に残されたのは,とてつもない脱力感,それを睡眠により消化するほかなかったからです.大した目標もなくただ大学受験というものを当面の目標としていたような人間はまあ,こうなってしまいます.来る大学生活について胸を躍らせるというよりは,つかの間の解放感に身を委ねたいという感じで,ネットで「大学生 授業」「大学生 サークル」などと検索をかけ,上から3番目くらいまで,テンプレの記事を眺めるばかりでした.実をいうと,単位がどうとか,どのように授業を受けるものなのか,自分の学科がどういう勉強をするところなのかはほとんど調べたことはありませんでした.ついに大学生になってしまったなと,1年間中途半端な身分に甘えていた自分にとっては不安な気持ちもあったものだと思います.

 そんな,大学生活という新たなる環境を目前にひかえた新入生にとっての大きな関心事は「友達できるかなあ」,これは大きいと思います.合格発表が3月上旬にあって,これ以降,サークルの新歓イベントや新入生向けの親睦を深めるための集まりが開催され,積極的な新入生は早くも華の大学生活をスタートさせます(ものと思われます.)私は大学のある京都に引っ越したのは4月頭でした.このころにも,引き続き歓イベントなどが開催されていて,ネットの記事に不安をあおられた私も勇気を出してこれに参加することにしました.私はこういうイベントは本当に苦手なのですが.コミュ障というやつです.やはりこの場でも,自分のこの性分を再確認しました.サークルの新歓イベントということもあり,上回生や新入生同士でラインを交換しました.未だにトーク履歴はないのですが.イベントはお開きとなりましたが,皆その場の流れでおしゃべりを続けているようです.こういう場面は一番困ります.この時私が思っていたのは「はよ帰りたいなあ.」おしゃべりもひと段落し,知り合った皆でご飯を食べに行くようでした.

「〇〇くんも行く?」「いや,今日はちょっとやらんなんことがあって...すんません.」

発動してしまいました.私はやはり人より一歩,遅れているようです.長い一日を終え,巣穴に戻った私はそれでもいくらかの充実感をもって,眠りについたことでしょう.長い一日でした.

 

 とまあ,私はこのレベルでコミュ障なのです.折角の厚意を断ってしまうなんて,もう手の施しようがありません.それで,私は3年間の学食を98%一人で過ごしてきました.世の中一人で飯を食うことに抵抗がある人がいるらしいですが,そんなことはとうの昔からの慣行であった私にとって不都合はありません.知り合いがいないと,そもそも気にするような人目もありません.というか,周りを見渡せばひとりで飯食ってるやつはまあまあいます.(全く交友関係がないような書き方をしましたが,少し話をする間柄の人は少しはいます.)

 大学生活での大きな目的として,「単位を取る」ということがあり,これを遂行せねばゆるふわの大学生活から抜け出すことができません.この「単位を取る」という目的は,もちろん講義にでて勉強をすれば達成できるようになっていますが,やりようによっては正攻法を避けて最小の労力でこれを乗り越えることはできます.必要なのは情報です.情報は学生同士の横のつながり(あるいは縦も)のつながりがあれば自然と入ってくるものです.人がある程度いるサークルに入ると内部で過去問が共有されるようなので入っておくと得かもしれません.ぼっち(この言葉を使うことはあまり気が進みませんが)であると一苦労がいるという話です.

 「単位を取る」ということに関しては,つながりはアドバンテージであって,ぼっちであろうが問題は全くありません.先に言いましたが,講義にでて勉強すれば何の造作もないとこです.何かの手違いが立て続けに起こることによってぼっちの大学生活を送ることになってしまった人は講義に出ましょう.家でごろごろしてるよりは多分有意義でしょう.まあ,「単位」についてはまた書きたいと思います.

 ここまでは就活も研究室にも入っていない大学三回生の体験談です.これから先にはこの状況が差し障ることもあると思いますが,少なくともこれまでは大丈夫でした.単位を取ることだけに絞って話をしました.しかし,言わなくても分かると思いますが,これは目標の一つに過ぎないということです.あらゆる意味においてです.そのために良好かつ幅広い人間関係を構築することはメリットしかないことでしょう.なぜ,自分はそれができなかった(しなかった)のか,といえばこの性分のせいでしょう.神が与えし大罪.逃れられるカルマ.これはしょうがない.人間関係の構築過程で,高校までの学校生活と異なることは,「人と一緒にいなくてもいい」ということです.大学にも「クラス」という制度はあって,自分のとこは一回生はある程度クラス単位で同じ授業を受けたり,クラスで親睦を深めるイベントがあったりもします.文化祭で模擬店をやったりなどクラスの皆で一緒に過ごし,仲を深める機会はあります.ただ,これは強制ではないのです.授業自体も一部のものを除いてはいかなくても支障はないし(このことについてはまた書きます),これまで自分がわずかながらも感じていたクラスの一体感とか,クラスに対する帰属意識が芽生えることは全くありませんでした.高校まではクラスは1日中一緒に過ごし,部活に入っていれば嫌でも毎日顔を合わせる間柄があったのですが,大学生はその部活に相当するサークルに入るかどうかは自由なのはもちろん,参加さえ強制力はないのです.(部活は少し事情が異なるようです)私のようなものがそういう環境に放り出されるとあらゆる場面において一人でいることを選択する場面が増えます.かくして,いまの私があると思います.大学生は自由なんです.

 単位を取ることは一人でもできますが,やはり友達を持っておくことで悪いことはないでしょう.私は周りの人間が楽しそうに見えます.人としゃべることは嫌いではありません.人との交流を求めて出かければ,積極的に行動しないでも,至るところにもう一歩踏み出す機会はあります.その局面では,できるだけ機会を無下にせずとりあえず乗っかってみる,それが大事なのです.これは自分に言っています.